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地名

内容

那覇市

那覇空港は軍民共用で自衛隊機と共用。国際通りは「奇跡の1マイル」と呼ばれる那覇のメインストリート。戦後の人々は生活の場を求めてこの地に集まってきた。

首里城

琉球王国の居城。戦時中は首里には軍事指令壕があり、1日数千発の砲弾を受け、赤木材が全滅。女子挺身隊、慰安婦も雑居。5.27に放棄。近年首里城は復元された。

糸数壕

アブチラガマとも言う。鍾乳洞。沖縄戦のとき、住民の避難壕、日本軍の陣地壕、野戦病院壕として使用された。1945年5月末、病院が南部撤退するとき、約200人の重症患者が置き去りにされ、死んでいった。

魂魄の塔

沖縄県民が米軍の砲火に追われ、貴屋武半島の墨に押し込められ最後の場所となった。県民4万5千柱を納めた墓石。「魂魄(こんぱく)」は「たましい」を意味する。

ひめゆり平和祈念
資料館

1989年オープン。米軍上陸後、日本軍は学徒隊を編成させ、少女の戦場動員を強行した。そして219人の尊い命を奪い去った。生き残った方々が戦場での状況を語り継いでいる。

ひめゆり隊
第一外科壕

「ひめゆりの塔」から100mほど行った所にある。6.18米軍の攻撃を受け部隊を解散して南へ脱出。ひめゆり隊の最後は荒崎海岸。

韓国人慰霊塔

平和祈念堂の隣にある石塚。沖縄戦の記録には「朝鮮人軍夫や慰安婦」のことがらが欠落している。塔には「虐殺」の文字が刻まれている。

南風原陸軍病院後

南風原十字路は“死の十字路”とも呼ばれ、撤退部隊や避難民に艦砲弾が集中。陸軍病院本部壕撤退にともない重傷3,000人自決。

佐喜眞美術館

普天間基地フェンス近くに建つ。反戦地主の20年前から軍用地料で絵の収集をはじめ、原爆の図で有名な丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」を展示。屋上の階段は、6月23日の「慰霊の日」合わせて6段と23段にした。

普天間基地

嘉手納基地の補完として2800mの滑走路を有するが、基本は重ヘリコプター基地である。CH-53E機は16tを搭載できる。市街地に隣接していることから、96年基地返還の計画もあったが、名護のヘリ基地移転問題も住民運動や環境問題で撤回され、代わりの候補地の選定で沖縄は揺れている。

読谷村
座喜味城跡
読谷北飛行場

沖縄の城、北飛行場の防空陣地、北部と中南部の接点。「像のオリ」、集団自決の島(慶良間、伊江島)が見える。中部激戦地が一望。1943年夏建設開始。米軍の北上を阻止する目的。1945年4.1無血占拠される。

像のオリ

直径200m、高さ28mのケージ型アンテナが円形に配置された傍受施設。軍事に関する膨大な電波を傍受でき、極東の情報を収集している。防衛庁は喜界島にも計画しようと。

シムクガマ

ここから1km離れたチビチリガマでは集団自決で141人中82人が絶命。このシムクガマでは全員救出されている。それはなぜだろう。

平和の礎

戦後50年を記念して、1994年6月23日の「慰霊の日」に完成した。沖縄戦で死亡した国内外の23万4千人余りの人々の名が刻銘されている。墓石ではないが沖縄の古老がこの前で手を合わす風景も見られ、今も沖縄の人々の心には戦争の伊丹が深く残っている。

 

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